金沢の良縁祈願の名所『珠姫の寺・天徳院』の魅力とは
家族を愛し、家族に愛され、家臣や領民みんなに愛された珠姫が祀られる天徳院は、開山から一般には非公開で、修行寺として荘厳で神秘的な時間を過ごしてまいりました。
貴重な文化財や前田家にかかわる寺宝、寺の歴史の中で受け継がれ品々などが数多く所蔵されています。また、広大な境内には、保存樹林が四季折々の美しい景色を織りなす本堂手前の中庭や、良縁祈願と夫婦円満、家庭円満、子宝祈願として人気の「おとり石」がある黙照禅庭と呼ばれる庭園がございます。こちらで心の浄化やリセットができると言われる枯山水のきれいで静寂なお庭を見ながら、お抹茶も楽しめます。お抹茶席の事前予約 (3日前) をすれば、百万石まつりの時期にしかお出ししていない「珠姫てまり饅頭」をお楽しみいただけます。
400年を数える境内のいたるところが、パワースポットとしても有名です。
厳粛で尊く気高い空間と歴史的な背景からか、訪れた方から『すごくパワーをもらった』 『神秘的な雰囲気だった』『マイナスイオン感がすごかった』 『心がふわっと楽になった』『疲れた心が癒やされた』 『恋愛運が上昇する気しかしない ! 』などのうれしいお声をいただいております。
新規事業の出資者を集めている中、勧められて参拝したところ、出資者の応援が決まって事業がスタートできることになりました。参拝して清々しい気持ちになったからかもしれません。
40代女性
唯一焼け残ったという山門をくぐると気持ちが引き締まりました。ゆっくりと回ることができたおかげですごくパワーをもらった。参拝後に新規の業務の受注がふえました。
30代女性
恋人募集中という訳ではなかったのですが、友人に誘われ参拝してみると、20才年下の彼氏ができました。
ずっと気になっている人と、ひょんなことから意気投合することがあり、距離が縮まってきたように感じています。
珠姫さまの噂は聞いて知っていたので、金沢に旅行に行った際にお参りに行きました。長男の結婚を祈願しましたが、おかげさまで結婚し、かわいい孫も生まれ、家族みんなが幸せな気持ちになりました。
モテ期を実感。三人の相手といい感じで現在進行形。
20代女性
母の勧めで訪れました。仕事が忙しく、恋愛をする暇もなく、疲れ切っていました。正直それほど期待しないで行ったのですが、想像以上に良かったです。お茶をいただきながら中庭を見たりして、疲れた心が癒されました。
初めてお参りしました。半信半疑でしたが、なんと ! YouTubeチャンネルの登録者が4000人ふえました。感謝しかありません。
無理かもしれないと半ば諦めていた融資がおりました。すごく神秘的な雰囲気でした。お礼参りに行きたいと思います。
40代男性
日々の中で起こる嫌なことを断ち切りたいあなた、素敵な恋愛をしたいあなた、お参りいただくだけでも、珠姫があなたの背中をそっとおしてくれることでしょう
日常生活をがんばっているあなた、気分転換に旅行で訪れたあなた、そんながんばるあなたをいつの世の中でも応援してくれる処
それが、この『珠姫の寺・天徳院』です
珠姫は、江戸時代初期の慶長4年(1599年)3月、のちの二代将軍 徳川秀忠公の次女として生まれました。
利家公亡きあと、加賀藩 (現在の石川県・富山県) を治めていた前田家が徳川家に反乱を企てているという噂が広まり、徳川家康公は前田家を攻撃しようとしていました。
そこで二代 利長公は誤解を解くべく、前田利家の正室であった芳春院 (お松の方) を人質として差し出し、代わりに珠姫を弟利常の正室として金沢に迎えるようにという徳川方の要求を受け入れました。姫がわずか3歳の時でした。そして、14歳で初産する運びとなりました。
10年間で3人の男の子と4人の女の子をお産みになりました。2人の間には当時には珍しく側室の子供はおらず、子供全員2人の愛の結晶でした。非常に仲の良い夫婦だった証です。珠姫亡き後、利常は7年もの間側室をもたずにいたそうです。
加賀藩三代藩主 前田利常公の良き妻として、江戸幕府二代将軍 徳川秀忠公の誇れる娘として、前田家、徳川家の融和と加賀の国の民の為に生涯を捧げた珠姫でしたが、24歳という若さで生涯の幕を閉じました。
加賀百万石として発展をとげる繁栄の土台と流れをつくった珠姫・・・加賀、能登、越中の安定と秩序を生み出したといっても過言ではないでしょう。
混沌とした江戸時代の初期に、加賀藩から遠く徳川家・将軍である父・秀忠や弟・家光に意見をした胆力。一方、家庭となると夫婦円満で、たくさんの子供たちを産み、幸せな家庭を築きました。仕事(どちらかといえば政治)と家庭を切り盛りした、現代でいうスーパーウーマンのような人柄から、良縁や和合の象徴と言われます。
最後まで夫・利常に大切にされた事実。お家を守るための勇敢で気丈な交渉力 !
彼女の人生は、まさに ! 愛と平和・love&peace ! であったと言えます。
天徳院とは、前田家三代藩主 前田利常の正室 珠姫の菩提寺として、寛永元年 (1624年) 巨山泉滴を住持として迎え開山されました。
寺の名前である天徳院は夫人の法名にちなんだもので、創建当時は東京ドーム3個分にあたる四万坪の広大な敷地を有し、後に加賀藩内の寺院で唯一五百石を拝領した、当時最高の格付けのお寺です。開創から360年程の間は、格地として全国30余りの触頭(ふれがしら)の1つとして加賀地区に在り続けました。
五代藩主 綱紀が、10年の歳月を費やして2度目の建立を果たした明朝式 (黄檗様式) の伽藍は、明和5年 (1768年) の大災で山門を残し焼失してしまいましたが、十代藩主 重教によって翌年、本堂、庫裡等が再建され、現存している天徳院の建物はこの時に建てられたものです。
寺宝には、珠姫ゆかりの徳川家 葵の紋が入った紙雛人形。珠姫の夫、利常が寄進した存星卓(ぞんせいしょく)※小さいテーブルのようなもの。三世 月坡道印(げっぱどういん)和尚が、鋳物師 初代 宮崎寒雉(みやざきかんち)に命じて作らせた葫蘆様釜(ころようがま)※ひょうたんのような形をした窯 などがあります。
加賀藩 六代藩主 前田吉徳の側室 貞(真如院)は、無実の罪により幽閉されたまま、没しました。この事件は日本三大お家騒動の1つとされ、加賀騒動と呼ばれています。貞の2人の男子も、母と自分たちの運命を悲観したまま、20代の若さで他界し、天徳院のはずれに墓所がつくられ、2人の菩提を弔うために建立されたのがこの地蔵尊です。のちに、貞への疑惑が無実の罪であったことが証明されたこともあり、190年を経て、天徳院の前田家の墓地が野田山に移る時に2人も改葬され、2人の墓の間にあった地蔵尊ははずれの地から天徳院の境内に場所が移ったことにちなみ、出世地蔵として知られるようになりました。
天徳院の山門は、元禄6年(1693年)に黄檗宗 (おうばくしゅう) の高泉という京都の高名なお坊さんを招いて、黄檗式建築でつくらせたものです。
明和5年に火災がおこって山門だけが唯一焼け残り、当時のままの姿で現存しています。ほかの建物は同年、建て直されたものになっています。天徳院山門は江戸時代中期以前の貴重な遺構としての価値が極めて高く評価されており、両脇2間の回廊と併せて県指定文化財となっています。
門上には釈迦の弟子である十六羅漢像のうち十五体が安置されており。いつも上から衆生(しゅじょう・一切の生きとし生けるもののこと)を見守っています。残る一体の羅怙羅尊者は別室に展示してあります。
この時鐘は、文政6年(1823年)に加賀藩が時刻制度を改革した際に造られた2つのうちの1つであり、県内最大級の鐘です。これは、時刻制度の改革を示す数少ない物証だとも言われています。この鐘は藩主 斉広の隠居所である竹沢御殿内の時鐘所に吊られていましたが、あるとき鐘が斉広の枕辺に現れ「天徳院に行くを望む」と告げたことを受けて、天徳院に寄進されました。毎年、除夜の鐘として近隣の市民に親しまれています。
黙照禅とは何も求めずにただ坐禅をすることであり、曹洞宗の神髄を表現した珍しい庭園です。静かに庭を愛でることで禅の教えにつながっていく場所であるといわれています。
心の浄化やリセットができるという枯山水の静寂な庭を見ながら、回遊して八方からそれぞれ眺めたり、茶席に座して眺望、鑑賞する方もいれば、珠姫の良縁祈願や家庭円満のご加護をお持ち帰りいただける「おとり石」、「金龍稲荷大明神」をお参りしたりと、見どころの多い庭園として知られています。
庭に面した茶室でお抹茶をお楽しみいただけます。
・お抹茶料30名未満 (1名):¥500-30名以上 (1名):¥450-
※黙照禅庭の見学には拝観料とは別に、お抹茶の注文が必要となります。※お抹茶のみのご利用も可能です。※お茶席の事前予約 (3日前) をいただきますと、百万石まつりの期間しかお出ししていない「珠姫てまり饅頭」をお楽しみいただけます。
天徳院の長い歴史の大部分は、修行寺としての時代が長く格地として、全国30弱の触頭の1つとして加賀地区に在り続けました。ここも昔は座禅堂として、昭和のはじめまでは修行僧がいたそうです。
いまは鎮守堂として座禅堂の雰囲気も残しつつ「金龍稲荷大明神」、「大弁財尊天十五童子」、「白山妙理大権現」を祀っており、三尊全体依加被力は、除災招福、家内安全、商売繁盛、心願成就など多岐にわたり、この立地の背景から放たれる雰囲気やパワーなどを感じられる参拝客の方が多いです。
天徳院には、人気の樹木が多々ありますが、そのうちの1つがなんじゃもんじゃの木です。なんじゃもんじゃは、モクセイ科の落葉高木“ひとつばたご”が正式名称です。本当の名前が分からなかったため、なんじゃもんじゃと呼ばれていました。英語名のSnow-flower Fringe-treeのとおり、葉がややへこんだ形の先が鈍く尖った雪のような花が咲きます。
黙照禅庭と称している庭にあり、お抹茶とお庭の散策がお楽しみいただけます。
※毎年の見ごろはゴールデンウイークあたりです
天徳院が、前田家の菩提寺としても深いかかわりがあったという証左といえるのがこちらの歴代藩主たちのご位牌です。
左から五代藩主綱紀、十二代藩主斉広(なりなが)、三代藩主利常、四代藩主光高の順に並んでいます。
珠姫が輿入れしたことで、前田家の系図はかなりの発展をすることになります。
そもそも、珠姫は、徳川家二代将軍の徳川秀忠の次女で、初代将軍家康の孫です。大叔父には織田信長、祖母には信長の妹のお市。 珠姫の母は、浅井長政の娘で豊臣秀吉の養女のお江。珠姫の姉は、豊臣秀頼の妻の千姫。弟は徳川家三代将軍の家光。 珠姫の妹は、後水尾天皇に入内した東福門院和子 …と、 珠姫の親族は歴史に詳しくない方でも聞いたことのある歴史上の大物ばかりです。現代よりも血筋が重要視された時代に、誰にも引けを取らない、 正真正銘のお姫様であったことがお分かりいただけるかと思います。
利常は珠姫と結婚し、天皇家、豊臣、徳川と親戚になれたことをたいそう喜んでいたという逸話もあります。 また、珠姫の産んだ男子はすべて藩主になっています。長男の光高は加賀藩四代藩主、次男の利次は富山藩初代藩主、三男の利治は大聖寺藩初代藩主、娘の富姫は八条宮家に嫁ぎ、 富姫の輿入れに伴い前田家の支援を受け、日本建築を代表する桂離宮を完成させていくのです。
当時の加賀藩は石高的に幕府(徳川家)に次いでの大大名であり、御三家並みの待遇を与えられていたとも言われています。その後も、前田家は、徳川家・宮家・公家・大名家と縁をつないでいきます。
珠姫の孫にあたる五代目藩主の娘の直姫(栄君・まさぎみ)を公家の二条家に嫁がせましたが、 上の娘の夫は桜町天皇となり、その娘は(日本最後の)女帝・後桜町天皇になりました。 あまり知られていないですが、珠姫によって発展した前田家の系図は、目を見張るものがありますね。
この駕篭は、登城の際にこの篭で来てもよいと許可をいただいたため、天徳院住職が当時(江戸時代)に実際に使われていたものです。
加賀藩内の寺院で唯一五百石を拝領した、当時最高の格付けのお寺の名残です。
江戸時代のものといわれています。山門の上に祀ってある十六羅漢像のうち、羅枯羅尊者のみ下におりていただいています。
羅怙羅尊者は、お釈迦様の実のお子様(ラーフラ)であります。また、釈迦十大弟子の1人にも数えられます。よく戒律を守られたことでも有名で、「自分が羅漢の地位にいるのは、血筋ではなく自分の本心から仏の道に帰依しているからである」と自分のお腹を見開いた形で象徴的に現された像です。
江戸時代のものといわれています。普通の像は顔が正面を向いていますが、こちらの阿弥陀様は、後ろを少し振り返った姿をしております。
その昔、永観律師という方が行道念仏(仏の周りを念化仏を唱えながら回る行)を行じた際、如来が先導され、その時、永観律師が眠くなり立ち遅れたので、「永観遅いよ」と言われ、後ろを振り返ったという話に基づいて作られたものです。
この像を含め、見返阿弥陀立像は数体しかない像と言われています。
黄檗宗第五代管長高泉和尚の書によるもので、天徳院が菅原道真の子孫である前田家を祀る大殿堂であることを示しています。
この紙雛人形は、元前田家家臣、石黒家に代々家宝として伝えられてきた珠姫様お手作りの雛人形です。
雛人形の古形といわれる立ち雛の形態で、淡い色彩、広げた小袖に各々描かれた徳川家の葵の文様、梅花の文様(前田家の梅鉢とは異なる)金色が消えそうな袴、女雛の胸元に合わせた袖などは、当時の堅実、素朴な風姿がうかがわれます。
観世音の名前を唱える人々の声を感じて、観世音菩薩が三十三のあらゆる姿に身を変えて(三十三身)、さまざまな場面や場所に出現して人々を救うことが説かれています。
前田家から寄贈されたもので、前田家との親密な関係が表れています。
本堂の一角に再現した御殿を舞台に、木偶師八代目玉屋庄兵衛氏(名古屋)が伝統の手法と新しい技術で実現した「珠姫・天徳院物語」。
六体の「からくり人形」が演じるドラマは、ふとタイムトンネルをくぐって風雲急を告げる金沢城の歴史の一コマを覗かせてくれる。
◆からくり人形劇『珠姫・天徳院物語』上演時間午前10時 / 正午 / 午後2時 / 午後4時 (約15分間)※12月~2月は午後4時の上演はありません
◆からくり人形DVD 上映時間午前11時 / 午後1時 / 午後3時 (約15分間)※上記以外の臨時上映もいたします
天徳院の敷地の奥側のお庭に、開山当時から変わらぬ姿をたたえる二つの大きな岩。まるで長く連れ添う夫婦のようだね、と参拝する皆さんに長く親しまれてきたものです。
この「夫婦岩」の前で祈りを捧げ、良縁や家族円満、子宝祈願にご利益のある「祈願石」が授与されます。
夫と深い愛情を通わせ、家を支え、たくさんの子供たちを授かり、前田家の系図を発展させた珠姫。
400年前から、そこにたたずむ二つの岩の前で、珠姫の人生に想いをはせ、お願い事を強く願うことで、皆様の幸せをお守りくださることでしょう。
◆おとり石 ¥1,000-
↓ 詳細はこちら ! ↓
金色は、古来より魔除けとして使われておりました。
七夕で金色の輪つなぎの飾りなども魔除けのおまじないのような意味があります。
また、「本来の自分を導き出したい」といった思いを、太陽のような熱量でサポートしてくれるともいわれています。
他にも、心に安らぎと豊かさを与えてくれたり、「富と栄華」や「美しさを増す」など、さまざまな効果があるそうです。
金沢といえば金箔が有名で、実に日本の金箔生産量の98%以上を占めます。
幕府から箔打ち禁止令が出ている中、前田家の文化奨励により密かに技術が研鑽され、伝えられてきたといいます。
金沢に古くから伝わる金箔と、珠姫が嫁いだ前田家が深く関係する天徳院の「金箔御朱印」で金沢と天徳院にも深く関係する「金箔御朱印」で珠姫と金の強力なご加護を受けられてはいかがでしょうか?
珠姫金箔御朱印:¥1,500-
金箔御朱印の金箔部分(珠姫マーク/梅鉢)については、ご希望の方には金箔貼り体験も行っていただけます。
天徳院でしかできない金箔御朱印貼り体験は、お寺での体験コンテンツの中でも希少でありがたい体験となることでしょう。
◆所用時間:約15分程度◆最終受付:閉館時間の一時間前◆費 用:¥2,000-
↓ ご予約はこちら ↓
前田家の文化奨励、代々の藩主が茶道を奨励したことで、茶道が盛んな国柄でもあります。
心の浄化やリセットができるという枯山水の静寂な庭を見ながら、庭に面した茶室に座して眺望、鑑賞しながらお抹茶をお楽しみいただけます。
◆所用時間:約30分程度◆最終受付:閉館時間の一時間前◆費 用:30名未満 (1名) ¥500- 30名以上 (1名) ¥450-
天徳院は、創建当時は東京ドーム3個分にあたる四万坪の広大な敷地を有し、後に加賀藩内の寺院で唯一五百石を拝領した、当時最高の格付けのお寺です。
開山から360年程の間は、格地として全国30余りの触頭(ふれがしら)の1つとして開山から一般には非公開で、修行寺として荘厳で神秘的な時間を過ごしておりました。
今もその名残が残る空間の中で、写経体験を通じて、心を落ち着かせ、自分と向き合う時間を楽しんでみてはいかがでしょうか?
写経は書く人の心を静めるだけでなく、人それぞれの想いのよりどころとなります。
一筆一筆、気持ちをこめてお経を書き写すことで、ひとつのことに打ち込む時間、無心でおこなう時間として、雑念や煩わしさから離れ、自分自身を見つめる時間をつくりましょう。
◆所用時間:舎利礼文 20~30分程度/般若心経 60分程度◆最終受付:閉館時間の一時間前◆費 用:¥2,000-
※当日受付可能です。※5人以上の団体の場合は要予約となります。
良縁祈願のシンボル「珠姫」にあやかった本格的な「姫体験・写真撮影」~お見合い写真やアプリの待ち受けに最適 ! ~
徳川家と前田家を結び、加賀藩の繁栄に貢献した珠姫は、良縁や家庭円満の象徴として天徳院に祀られています。そんな天徳院にて、珠姫の時代の姫装束の体験をしていただきます。
ただお着物を着る体験ではなく、江戸時代の姫装束への体験は大変珍しいものです。姫装束は現代の結婚式でも使われるのと同じ反物を使用した、本格的なもの。
さらに姫装束での院内/お庭でのプロカメラマン撮影の写真撮影20カットもセット。撮影した写真はデータでお渡ししますので、体験の思い出をご自宅でも振り返っていただくことができます。
◆所用時間:3時間程度◆最終受付:ご利用日の7日前 17:00まで◆費 用:平日 ¥68,000- (税込)/土日祝 ¥75,000- (税込)
◆オプション ・2Lサイズ額入り写真:¥3,080- (税込) ・スクエア3連フレーム写真:¥5,280- (税込) ・六切り2面台紙:¥9,680- (税込) ・6面パノラマデザインアルバム:¥27,500- (税込)
※オプションは送料着払いにて後日発送、日本国内のみ対応となります。※装束はデジタルカタログと現地での5種類からお選びいただけます。※姫装束の衣装、着付け、ヘアセット、プロカメラマンによる写真撮影、撮影データのお渡しが含まれます。※肌襦袢、裾除け、足袋等はご持参ください。ご用意が難しい方は別途ご相談ください。※メイクはご自身でお願いいたします。※お子様の体験は不可となります。(身長145cm以上が目安)※後日、ご予約いただいたメールアドレスに撮影した写真のデータを共有させていただきます(1週間程度、繁忙期は2週間)※ご予約はご利用日の1週間前までとなります。※小雨決行ですが、雨の場合は院内での写真が中心となります。※キャンセルの場合、ご利用日の2日前から前日までは50%、当日は全額のキャンセル料がかかります。
◆珠姫の寺 天徳院
・住所〒920-0942 石川県金沢市小立野4丁目4-4
・拝観時間3月~11月 9:30~16:3012月~2月 9:30~16:00
・休観日12月~2月の毎週水曜日12月29日~1月3日
・拝観料30名未満 (1名):大人¥500- / 中学生¥300- / 小学生¥200-30名以上 (1名):大人¥450- / 中学生¥270- / 小学生¥180-
【歴史監修】横山 方子(石川郷土史学会副会長・一般社団法人 珠姫の会)
【記事監修】ハッピーマイスター☆元気が出る占い師Christine Derico (クリスティーンデリコ)
珠姫(たまひめ)は、江戸時代初期に実在していた女性です。
珠姫は徳川家二代将軍 徳川秀忠の次女で、徳川家初代将軍 徳川家康の孫。大伯父に織田信長、祖母にお市。珠姫の母は浅井長政の娘で豊臣秀吉の養女、信長の妹のお江。珠姫の姉は豊臣秀頼の妻の千姫。珠姫の弟は徳川家三代将軍の徳川家光。珠姫の妹は、後水尾天皇に入内した東福門院和子 …と、珠姫の親族は歴史に詳しくない方でも聞いたことのある歴史上の大物ばかりです。
現代よりも血筋が重要視された時代に、誰にも引けを取らない、正真正銘のお姫様であったことがお分かりいただけるかと思います。
利常は珠姫と結婚し、天皇家、豊臣、徳川と親戚になれたことをたいそう喜んでいたという逸話もあります。
珠姫はどっしりかまえて打たれ強く、きもが据わった「胆力のある人物」であったと言われています。
珠姫が嫁いだ後も幕府から特別な目を向けられるなど、加賀藩は将軍にとって気になる存在となっていました。その時に、父であり時の将軍だった徳川秀忠に対して、あらぬ疑いの心配はご無用 ! とビシッと言い放ち、それを使者から秀忠に伝えさせました。
また、夫の前田利常が参勤交代で江戸に向かう時には、あまりにきちんとしていると謀反の疑いがかけられるかもしれないと、ちょび髭をはやしていくようにアドバイスをしたそうです。
利常が江戸に着いたタイミングを見計らって、父で二代将軍 徳川秀忠に、大事な用事があるから主人を早く戻してほしいと依頼しました。 自分の父であっても将軍に対して依頼するなど、とても勇気のいることです。
また、自分の実家である徳川家、嫁ぎ先の前田家が円満であるようにと、加賀藩内の浄土真宗(徳川家の宗派・寺院如来寺)に家康の位牌を設置したり、徳川と前田の家紋を入れるように配慮するなど、両家の和平のために心を尽くしたことも伝えられています。
こういったエピソードからも、聡明でユーモアがあり利発的な女性でだったがうかがえます。
現代の私たちにも参考にできることがたくさんありそうですね。
珠姫には幼いころから優秀な女性の教育係の岩崎という人物がついていたといわれ、「源氏物語」「伊勢物語」「古今和歌集」などの書物を学び教養の深い女性であったといわれています。 ※この教育係の女性は非常に優秀な人で、藩主利常とも政治や兵法などの話題で語りあえるほどの人で事務能力も備えていました。
また、夫 利常の母 寿福院が建立した経王寺には祈祷に優れた僧がおり、珠姫や子供たちが病気の際や子育てなど、困りごとを相談し悩みを乗り越えていました。
珠姫自身が健やかで聡明であっただけではなく、子供たちにもそうあってほしいと、さまざまに心を尽くしたことがうかがえますね。
夫の利常ととても仲が良く、子だくさんであったことも知られる珠姫。利常は、この頃の殿様としては珍しく、珠姫以外の側室を持たなかったことでも知られています。
お城の中で、珠姫の居住していた部屋から火事が出た時も、珠姫が無事であることを確認した利常は、心から安堵し、火事をとがめることなく、「建物も古くなってきたところだったから、建て替えるのにちょうどいい」と笑い飛ばし、建て替えたという逸話も残っています。
利常が参勤交代で江戸に行った際に早く国に返してほしいと、珠姫の父である徳川秀忠に手紙を出したというエピソードは以前もご紹介しましたが、珠姫も夫のことを愛していたのでしょう。
更に珠姫は、子供たちの教育にも心を尽くし、家臣も大切にする情の厚い人物であったそうです。
そんな珠姫のことを利常も深く愛しており、利常は珠姫が亡くなった際に二度も卒倒したと記録にも残っております。家臣や城下の民も悲しみに暮れ、金沢の街が白一色になりました。
更に利常は珠姫亡き後7年間側室を置かず、独り身で過ごしたそうです。
珠姫の利発さ、愛情の深さ、夫婦円満っぷり…あやかりたいですね。
珠姫は夫の前田利常ととても仲が良く、子だくさんであったことは以前のお話でもお伝えした通りです。
珠姫の産んだ男子はすべて藩主になっています。 長男の光高は加賀藩四代藩主、次男の利次は富山藩初代藩主、三男の利治は大聖寺藩初代藩主、娘の満姫は広島藩浅野家へ、また富姫は八条宮家に嫁ぎ、富姫の輿入れに伴い前田家の支援を受け、日本建築を代表する桂離宮や庭園を完成させていくのです。
当時の加賀藩は石高的に幕府(徳川家)に次いでの百万石大大名であり、御三家並みの待遇を与えられていました。
その後も、前田家は、徳川家・宮家・公家・大名家と縁をつないでいきます。
珠姫の孫にあたる五代藩主 綱紀の娘の直姫(栄君・まさぎみ)を公家の二条家に嫁がせましたが、上の娘の夫は桜町天皇となり、その娘は(日本最後の)女帝・後桜町天皇になりました。
その生涯の功績から、天徳院では良縁成就(祈願)・夫婦円満・子宝円満・家庭円満の御仏としてお祀りしております。
加賀百万石・金沢の自然が生んだ銘石。金沢の市街地から東南東へ8キロほどの位置にある戸室山は、中期更新世に噴出した溶岩円頂丘で、その年代は40万~60年前と言われています。隣接する医王山は年代が1700万~2000万年前といわれ、わが国第二の落電地としてその名が知られています。
近年、この雷電のプラスマイナスから発生されるエネルギーが、医王・戸室山系の岩石と植物に作用することによって、この山系に幾多の「薬草」と「名水」をもたらせたとアメリカの学会で発表されたそうです。
また、この薬草は有名な富山の薬売りが用いていたと言われ、昔から様々な人生活に欠かせないものであったようです。
ものすごく長い年月をかけてこの地で様々な恩恵をもたらせていた戸室石。マイナスイオンや遠赤外線効果などもあるとされており、そのポテンシャルの全容はまだまだ知られてないこともあるでしょう。
この素晴らしいパワーをもった戸室石を祈願石として願掛けしておとりいただき、お守りがわりにお持ちいただくものです。
まず、霊峰と名がついてる 日本三大名山白山の名前がついた天然水はこれだけです。
霊峰白山の雪解け水が幾重にも折り重なった地層を潜り抜けた70~100年眠っていた地下天然水をくみ上げ、熱処理をしないでものすごく細かいフィルターで濾過され無菌状態でパッケージされたものです。
霊峰白山の名前と商品の背景だけで、水としてもすごいものですね。
ご参拝いただいた方の力水として、お受け取りいただけます。(3,000円の御祈祷にお付けいたします)